凡夫の手記

日々、感じた思ったことなど

回想1-2

僕たちの通学路は田園地帯だったので、田植えの時期からコンクリートの用水路にはピンクの禍々しいジャンボタニシの卵がたくさんついていた。それを見て(いくらみたいな味がするのだろうか?)と小さなころから妄想していた。なので、友人達と笑いながらそんなことを話したところ、食ってみろよと囃したてられた。売り言葉に買い言葉、兼ねてからどうせ食べたかったしと「じゃあ、食ってみるわ。」「じゃあ食えよ」「嘘つくなよ」「馬鹿じゃねーの?」等々の言葉を受けた。その辺に落ちていた枝で卵を突き刺す。かなり固く枝がしなり折れた。短くなった枝でえぐるようにほじると、中からどろっとした血のような液体が流れ出た。枝の先についたそれを指で掬い舐めてみる。不味かった。チョロッと舐めてその後ずっと唾を吐いていた気がする。そんな様子を見て友人達はこいつまじでやったぞと引いていた。そんなことがあった数日後、僕たちは職員室内の会議室に集められた。どう話がいったのか僕が同級生たちに無理矢理タニシの卵を食べさせられたことになっていた。僕は周りの大人達が何故怒っているのか分からないまま、どうでもいいので早く帰りたいから首を縦に振っていた。友人達と職員室から出ると、「お前が勝手に食べ始めたんだろ!」と殴られた。
あぁ、何てことをしたんだろう。何ていい加減にその場をやりすごそうとしたのだろう。言い訳でもいい何か言わなければ。そう思いながら殴られた僕を置いて友人達は廊下を歩いていった。初めて他人を無神経に傷つけた記憶だ。

回想1-1

もう一つ思い出深い話がある。休日にいつも通り近所の友人と遊んでいた小3の僕は、小6の近所のお姉ちゃんと遊ぶことになった。お姉ちゃんは今までに会ったことない大人っぽさと影があった。
お姉ちゃんに連れられて渡ったことのない川の向こうの駄菓子屋に行った。ろくにお小遣いももらっていない僕は初めての駄菓子屋をキョロキョロ見回すだけだった。それを見かねたのかお姉ちゃんは「さやえんどう」を買い、「一緒に食べよう」と店を出た。近くのドブ川の橋の下で腰掛け、二人なぜか無言でさやえんどうを食べた。「うちで遊ぼう」とお姉ちゃんが言うので家に上がった。ゲームソフトを漁ると、やったことがない「マリオゴルフ64」があった。これやりたいとせがみ2人で遊んだ。夕方に近づきまだやりたいとせがむとゲームを貸してくれた。「また遊ぼう」と約束し別れた。
家に帰った僕が「マリオゴルフ64」で遊んでいると、親からそんなもの買ってないよね?と怪しまれた。友人とゲームの貸し借りは当たり前だったけど、今日あったばかりの女の子と貸し借りしたとは言えず、前から付き合いがあった友人から借りたのだと嘘をついた。月日は流れ父方へ引き取られた後、64で遊んでいるとソフトの中に「マリオゴルフ64」があった。約束も果たせないまま借りパクをしてしまった。今でも、「さやえんどう」か「マリオゴルフ64」を見ると顔も思い出せなくなったあの子を思い出す。

回想1


失い無くし消えていく。あれほどの後悔や痛みも時間と共に小さくなる。何度も擦った擦り傷、鋭く切り裂いた切り傷もかさぶたとなり消えていく。そんな友人たちを愛おしく弔いたい。

【保育園、幼稚園】
僕の最古の記憶は車の中でゲームボーイをしている。車が揺れるのも気にせず目を釘付けにしてキャラクターを操作する。そんな姿を見かねた祖母が「そんなことはやめ」と肩を叩いた。「触るな!!ババァ!!」と激昂する。あれは確か4歳だった気がする。

そんな風にゲームが大好きな僕は保育園の休み時間にもゲームの世界に入っていた。校庭を駆け回りここにハテナブロックがあるんだ。ジャンプジャンプと飛び跳ねていた。ある時は枝を拾って「ゼルダの伝説」のリンクのように振り回し回転切りをしていた。思えばこの時から妄想癖が酷かった。そんな妄想たちは時には僕を苦しめたが、時には救ってくれた。基本的には前者だけれども。

保育園のすぐ裏に家があり住んでいた。しかし、あまり良い物件ではなく隙間風が吹き込んでいたし、トイレ中に何度もムカデに遭遇した。そんなアパートで何年か暮らした後、両親は一軒家を買い、僕らは別の土地へ移った。

一年間幼稚園に通った。両親は変わらず働いていたので、近くに住む母方の祖父が送り迎えをしてくれた。祖父母の家では薬の瓶に保存された柿の種を食べながら「スーパーマリオ64」で遊んでいた。しばらく遊んでいると、母が仕事から帰り一緒に我が家へ帰った。そんな毎日だった。たまに近くの高級レストランへ祖父母そして母と一緒に行くことが僕は好きだった。池の鯉に食パンの切れ端を与えて群がる様子を見るのが好きだった。生意気なことに、僕は味も分からない癖に唯一数字が4つ並んでいるという理由でいつもステーキ定食を頼んだ。祖父母はニコニコ笑っていたが、母は勘定を持つ祖母に謝っていた。絶対的価値観であった親がへりくだる様子が面白かった。

初めて、バレンタインチョコを貰ったのはこの時だっただろうか。祖父母もいないときは隣の家の女の子とピコで遊んだ。年齢にしてはゲームが上手だった僕はピコのミニゲームを難なくクリアすることができた。そんな彼女からいつかお世話になっているからとチョコを貰った。今でも覚えているから相当嬉しかったのだろう。

【小学校低学年】
小学校でも僕の冒険癖は治らなかった。通学路を真っ直ぐ帰ることなんてほとんどなかった。住宅地の間を流れる排水路のトンネルをくぐったり、ランドセルを放り投げ草むらで通学帽を振り回しモンシロチョウを捕まえた。通学路にはいろんな思い出がある。ある日は、パチンコ屋ののぼりに描かれた水着のお姉さんの胸に手が当たったとのことで数日間あだ名がスケベになった。またある日は、友人達と裏山の数mもあるアスファルトをよじ登り遊んでいた。すると、何かの拍子にランドセルが開き中から教科書や筆箱が飛び出し茂みの中に落ちていった。落ちた文房具を拾い集めると雨が降ってきたので家に帰ったが、家で改めてランドセルの中を見ると大好きだったなぞなぞの本がないことに気づいた。親に一部始終を伝えるとそんな危ないところで遊ぶなとこっびどく怒られて泣いた。その後、傘と懐中電灯を手に一緒に夜遅くまで探した。

そういえばこんなこともあった。ある日、胃腸風邪かインフルエンザかで何日か寝込んでいた。母は付きっきりで看病して病院に何度も行くかと訊いてくれた。でも、僕は行かないと何度も首を振った。僕は当時からケチな子供だった。手洗いの度に水を止めていたし、2階から荷物を一階に下ろすだけでも階段の電気をこまめに消した。なぜこんな風になったのか心あたりはないが石油が何十年後に無くなるだとか地球温暖化で何十年後には海の底だなんて話をリアリティを持って、誰のものでもない自分の話だと信じ込んでいた。そんな環境問題に留まらず僕はお金を無駄に使うことを渋り、この時も病院に行ったら医者代が勿体ないと思っていた。何度も首を振る僕に対し、とうとう母はもしかしてお金がかかるから?と訊いてきた。僕は当時の吉本新喜劇内のネタのように  「Yes,I do」と答えた。頬を叩かれた。何が起きたか分からず母を見ると瞳に涙を浮かべ、寝室を出ていった。当時の僕は自分が何の間違いを犯したのか分からないまま目を白黒させながら天井を眺めていた。今ならば母が泣いていた理由が分かる気がする。

授業中はたくさん手をあげて問題に答えていた。給食では4、5人で机を寄せ合い「僕の好きな色は何でしょう?ヒントは筆箱の色。正解。あずさちゃんの好きな色は?」そんな他愛ないクイズを出してみんなと楽しんでいた。休み時間には学校の石という石をひっくり返して、ダンゴムシゲジゲジを枝でつついていた。掃除の時間、雑巾がけをしているとき目の前の女の子のスカートの中がずっと見えて訳も分からずドキドキした。放課後には英語教室に行き、英語版カルタで何度もお手つきをして先生を困らせた。休日は野球クラブの練習に行っていた。かなり下手くそでミットにボールが入った後からバットを振り始めていた。でも、いつか上手くなってやろうとみんなで野球をするのが楽しかった。日曜日にはクラブの子と遊ぶために、校区の端から端まで田園地帯を自転車で走った。一緒に野球をしたり、「大乱闘スマッシユブラザーズDX」や「星のカービィ スーパーデラックス」をして遊んだ。カービィの電源をつけて0%の表示が出る度溜め息を吐きながら笑いあった。毎日が新しくて楽しくて写真に映るときは満面の笑顔を浮かべてピースをしていた。

ある日、帰り際に同級生の女の子から頬にキスをされた。彼女はキスをした後、顔を真っ赤にして教室から出て行った。訳が分からなかったからその様子を見ていた女の子に「どういうこと?」と聞いたら、「あの子、君のことが好きなんだって」と言われた。不思議な気持ちになったがその子とはそれ以降何もなかったし、何もしなかった。

そんな僕の将来の夢はゲームのデバッガーだった。ゲームをテストプレイしてバグがないか調べる仕事だ。僕はゲームをしてお金が貰えるなんて最高だと思った。家では64や兄のps2で遊び、64はもっぱらマリオやゼルダps2は一人で桃鉄をしていた。5つ離れた兄より僕はゲームが上手かったが、中学生の兄とはマリオカートマリオパーティでたまにしか遊ばなかった。

小学校低学年、この時期が僕の人生において最も楽しかった。日々が発見に溢れ充実していた。振り返っても一番モテていたし、傍目から見ても輝いていたのだろう。そんな、僕を育ててくれたのは親だけでなく、家族、友人、近所の人、環境、土地...を含めた故郷だった。

小4の春、父が家に帰って来なくなった。帰ってきたと思ったら、コソコソしているか母と喧嘩をしていた。当時の僕に父との思い出はあまりなかった。平日の晩御飯も一緒に食べることはほとんどなく、休日も家族サービスとしてキャンプに何回か行った記憶しかない。なので、父が帰って来ないことはあまり気にしなかった。むしろ、家庭内の不穏な空気ゆえに存在感が増したようだった。僕が学校から帰ってくると父が学校に駐車場にいた。そして、遠くから僕を手招きし、お母さんには内緒だよとテレホンカードと父の電話番号のメモを受け取った。当時、その意味が分からなかったが今思えば、家からの連絡では履歴が残るし、何かあったら秘密裏に電話をかけてというメッセージだったのだろう。しかし、父にとっては重要事だったが僕にはどうでもよかった。実際、一回も電話をかけなかった。僕はメモはもちろん見せずにテレホンカードを道端で拾ったと母に報告した。母にとってそれはお見通しだったらしくますます仲が悪くなったように思う。当時の僕も不穏な空気を感じていたがそんな、まさか、そんなことはテレビの中の話だけだと考えていた。考えようとしていた。この時、もし僕が何か言っていれば行動していれば運命の分岐は変わったのだろうか。そんな後悔が後の青春時代を無駄にした。

あとから分かった話だが、当時父は仕事が忙しく家に帰るのも夜遅くだった。そして、よくある「家族と仕事どっちが大事なの!?」という問いに対して父は「家族を支えるために仕事をしているんだろ!」という正論を愚直に信じる人だった。それ故にそれ以外の正論に気づかなかったのかもしれない。ちなみに父の父、僕の祖父もそのような人だったらしく父は親の背中を見てちゃんと育ったのだろう。この血の呪いのような話は今後も続いていく。

春から夏に変わり夏休みに入った頃、僕はいつも通り母方の祖父母の家に預けられた。しかし数日後、父方の祖父母の家に遊びに行くらしく父と父方の祖母が来た。約1ヵ月振りに父を見た気がする。僕だけが父の車に乗り、兄は母方の家に残るそうだ。別れ際、64とps2どっちを持っていくか訊かれた。兄は滅多に64で遊ばなかったから、僕は64と答えた。大人を除き僕だけが何も知らないまま僕を乗せ車は走り出した。再び母と会うのは5年後になる。

人は一人では生きていけないのかずっと考えていた

人は一人では生きていけないのかずっと考えていた。
一人で生きた人は一人で生きたゆえに何も残らず、一人で生きていけなかった人は人と繋がったゆえに「人は一人では生きていけない」という言葉が広まったと考えていた。
そんなことを考える僕はもちろんずっと一人だ。
人恋しさに悶えた日々も遠い昔だ。
そんな日々を過ごす中、福山雅治の「東京にもあったんだ」が流れてきた。
都会に染まりながらも故郷の大事な人へ想いを馳せる歌だ。
いつからだろう、綺麗な景色を見て誰かにこの感動を伝えたい、分かち合いたいと思えなくなってから、他人の顔を思い浮かべることができなくなってから。
埃を被った感情が今のお前は正しいのかと語りかけてきて、いつの間にか泣いていた。

https://youtu.be/ppktQUJVXso

初めて元号を跨ぐ時、初めての給料で初めて女性を跨いだ話

平成30年4月30日。平成最後の日に僕は童貞を卒業した。

思えばこれまで彼女もいたことがなく性経験もないまま、世間一般では青春と呼ばれる学生生活を過ごしてきた。中学生の頃は高校生になったら彼女ができるのかなと考え、高校生の頃は大学生になったら彼女ができるのかなとエスカレーターのような考えだった。そんな人間に彼女などできるはずもない。類は友を呼ぶだろうか友人達と酒を囲ってもそんな浮いた話はほとんどしなかった。ただただ日常や先生の愚痴を言い合ってそれはそれで楽しかった。

しかし、それと同時に危機感もあった。青春と呼ばれるこの時期にそのようなことを経験しないこと。それはつまりこんなことではないかと。
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平成という一つの時代が終わる。区切りをつけるため、風俗に行こうと決意した。そして、確かめたいことがあった。僕は恋愛がしたいのだろうか?セックスがしたいのだろうか?この謎を解明すべくソープランドへと向かった。

事前準備として、ソープへ行ったことがあるという知人へ連絡を取り、四日四晩、他の風俗との違いという初歩から気になった嬢の写メ日記まで調べた。あの数日で一番緊張したのがお店に電話するときだった。電話するのに部屋をぐるぐると何周歩き回っただろうか。

ボーイ「はい、店名です。」

僕「4月30日、○○○さんは大丈夫でしょうか?」(HPから空いてるのは確認済み)

ボ「はい、大丈夫です。その日だと‥4時が空いてます。どうなさいますか?」

僕「では、その時間でお願いします。」

ボ「送迎を希望しますか?直接いらっしゃいますか?」

何事も経験と思ったので送迎を希望した。

ボ「どの駅でお出迎えしましょうか?」

僕「上野で」

その後、待ち合わせ場所を詳細に訊いたため、ボーイから少しうざがられたが最後に、「風俗というものが初めてなのでお訊きしたいのですが、HPに書いてある入浴料以外の追加料金はないですよね?」と訊くと、優しい声で「ご安心下さい。HPに書いてある通りです。ご安心下さい。」と丁重に返答をもらい、やっと緊張の糸が緩んだ。

その夜は、クラス替え前夜のように緊張した。どんな人だろうか。不安と精一杯楽しもうという気持ちからその日はなにもせず床についた。

翌日、駅に向かいながら確認の電話をして、待ち合わせ場所に15分前に着く。行き場のない高鳴りを誤魔化すため、近くのコンビニで頭に何も入らないまま雑誌を読んでいた。約束時間を過ぎても渋滞のためか連絡は来ず、近くでは同業者の白いハイエースばかりが止まっていた。その後、店に電話しナンバーを聞き車に乗り込んだ。

10分ほど車窓の景色を見ながら、見知らぬ場所へ連れて行かれるドナドナな気分に浸っていると店に着き、タバコの臭いが染み付いた待ち合い室に通された。在籍嬢のカタログを手に取り、モザなしの顔を見ながらHPじゃモザイクだけど案外かわいいじゃんなどと考えていた。

 

名前を呼ばれた。

曲がり角のさきにいた、

その姿を見て僕は「パネマジって凄ぇ」と感心した。

 

「それじゃ行こ♪」と手を引かれ階段を登る。部屋の中をきょろきょろと見渡していると「初めて?」と声をかけられる。「風俗もセックスも初めてです。」「童貞かー久しぶりだねぇ」慣れた手つきで準備をする。「キスも初めて?」「初めてじゃないです。」「良かった。ファーストキスまで奪うと悪いから」ファースト性体験よりファーストキスの方が大事だという価値観が女性らしいと感じた。そうこうするうちにキスをされ、するすると下半身に手を伸ばし、ズボンの上からさすられた。程よく元気になったところで全部脱いでと指示され、ブラのホックを外してと言われた。両手で確かめるように外した。

その後、二人で体を洗いベッドに腰かけるとフェラチオになった。「これオナホの方が気持ちよくね」と思ったが、我が息子は適当に刺激を与えるだけで元気になる性質だ。「そろそろ出ます」嬢は急いで顔を背ける。射精した。

「最初なのにこんなに出ちゃってごめんねー♪」何を謝っているのかよく分からなかったが、嬢は出たそれを献身的にティッシュで拭いてくれた。「まだ、元気そうだね♪」2回戦だ。

 

コンドームを口で器用にはめた後、自分の上に跨り騎乗位となる。愚息を持ちながら腰を下ろしていく。嬢が喘いだ。「えっ、これ入ったの?!」何の実感も感触もなかった。上下運動が始まったが[気持ちよさ:オナホ>騎乗位>フェラチオ]という不等式を思い浮かべながら、目の前でわざとらしく喘ぐ彼女を眺めていた。そうこうしているうちになぜか愚息がしぼんできた。「出たかもしれないです。」「そんな感覚なかったけどなぁ。もうちょっとやってみるね。」しかし、しごけどしごけど勃たない。ゴムを外すと誰からも認知されなかった息子達が細い糸と共に垂れてきた。

 

「あーのど乾いちゃった。何か飲む♪」メニューを指さす。「じゃあ、麦茶で。」「オッケー♪」と返事をするとフロントに電話を掛けていた。飲み物の到着後、麦茶を飲んでいると「何でさっきから敬語なの?」不服そうに嬢が話しかけてきた。「初対面の人は敬語になってしまうんです。」「ふーーん、まぁいいけど」思い返せば、彼女なりに初めてを楽しんでもらおうという気遣いを無為にさせてしまったのかもしれない。だから童貞なのだろう。

話を聞くと毎年年末は、今年の内に脱童貞駆け込み需要があるそうだが今回の改元ではそのような需要はほとんどないそうだ。また、どうしてソープで働いているのか聞いてみた。今までデリヘルで働いていたが本番交渉などをしてくる客が鬱陶しく、どうせ本番やるならソープで働いた方が良くね?となりソープで働いているそうだ。「まあ、セックスは好きだからねぇ」これまでの献身的な態度や気遣い、彼女の横顔からプロフェッショナルな仕事の流儀を感じた。

 

浴槽にお湯を貯めながらもう一度体を洗う。貯まりきった頃に浴槽に入ると、マットの準備を始めていた。「そういえば、ザーメンって美味しいですか?」前から気になっていたことを聞いてみる。「不味いよねぇ、さっきも顔背けたでしょ」「やっぱり不味いですか。」「AVとかでやってるのはほんとよくやってるわ」やはりザーメンは不味いらしい。

「じゃあこっちに来て、あっ、足元気を付けて♪」バラエティーのローション相撲のように足元を取られながらAVでよく見るマットへうつ伏せになる。「いやー家でこんなことできないっすよ」「ソープのいいとこだね♪」と言うと、背中から覆いかぶさるように体を擦り付けてきた。普通に気持ちよいが、性的な気持ちよさは全くない。背中に性感帯がないのだろう。ただ、足の指まで丁寧に舐めてくれたのにはかなり驚いた。「仰向けになって♪」もう一度騎乗位となる。しかし、まったく元気にならなかった。やってみたかった正常位を提案してみる。それらしいところに当ててみるが入らない。「ここだよ」と案内され入れてみる。それらしき感覚があったのでそこから前後に動いてみると「あーできてるよ、できてる、できてる」と褒められ、前後運動の度にわざとらしく喘いでいた。しかし、それでも元気にならなかった。結局、嬢が「やばいやばい」と残り時間を気にしながら手コキで致してくれた。なんか申し訳ない気持ちになった。「90分で3回てどうなんですか?」「うーん、まあ普通だよ、童貞だと無茶苦茶出すか、全然ダメかの2択だから。だからちゃんと出してくれてよかった♪」分からないけどこの娘サービス良くないか?

 

後片付けが終わり部屋を出る。上ってきた階段を下り、曲がり角で最後のキスをして別れた。待合室でアンケートに答える。「恋人っぽかったですか?仕事っぽっかったですか?」すまんな、どっちも知らないんだ。と思いながら恋人ぽいと答えた。

 

店を出ると小雨降る夕方だった。店に入った前と後で僕は変われただろうか?少なくとも心拍数だけは変わっている。吉原の街を歩いた。キャッチに声をかけられるが、「もう終わったんです」と答えると別の店にもかかわらず「また、来て下さい」と言われる。いい街だ。散策していると、こんな騒がしい日に唯一の公園?で濡れながら、一人で酒を飲む中年男性がいた。未来の自分を見ているようだった。

初めて風俗に行った感想だが、恐らく僕は今後あまり風俗に行かないのではと思う。めでたく童貞から素人童貞へとクラスチェンジしたわけだがその儀式はあまりにもあっけなかった。恋愛がしたいのか?セックスがしたいのか?どうやら僕は前者のようだ。「性欲は一人でも満たせるが、愛欲は一人では満たせない。」そんなことは薄々感じていたが、今回の経験で「愛欲は一人では満たせない。また人形相手でも満たせない」そんな文言が辞書に登録されたようだった。

童貞が童貞たる理由は何だろう。きっとそれは童貞という肩書きではなく、女性経験が少ないことから由来する何かだろう。現に僕は彼女とうまく話せなかったように思う。少なくとも僕が彼女を楽しませることはできなかっただろう。童貞が素人童貞になったところで何も変わりはしない。そんな当たり前のことに改めて気づかせてくれただけでもありがたい。2万何千円の授業料だ。

 

恋人のいない人は理想が高いと言われる。それゆえに目の前の人を大事に出来ないのかもしれない。だから人とうまく話せず、人脈も広がらない。今まで遠くを見すぎていたかもしれない、青い鳥は近くにいるのかもしれない。そう思いながら濡れながら帰った。

凡夫

 

ボルダンスキー展行って来た感想

最後の週末ということもありわりと賑わっていました。前情報全くない状態で行った感想はあんなに死、不安、悪夢のようなものを全面に押し出したアーティストがいたんだなという感想。

 

画質の荒い大量の顔写真や子供の夢に出てくるようなポップな悪魔や骸骨(アンパンマンに出てくるホラーマンのよう)は原始的な恐怖や不安を煽り、心臓の拍動と共鳴して点滅する電球の点滅や変化する自画像は作者自身の強烈な老いと不安を感じられずにはいられない。作者は子供の顔写真を多用するがそこに若々しさなどは感じられず、むしろこれから失っていくものの多さを我々に示すようだ。作者は胎児は全てを知っているが誕生と共に全てを忘れるというユダヤ教の思想に賛同している。それゆえにこのような表現となるのだろう。https://bijutsutecho.com/magazine/special/promotion/20001

 

このような退廃に襲われるが、撮影可能エリアへと移行すると少し毛色が変わってくる。今までは鬱屈とした死、不安を煽るが、この先は仏教的価値観で言うならば三途、地獄、来世が待っている。まずは幽霊の廊下の先にそびえるぼた山。いくつもの黒い衣服が積み重なり、1つの何かを形成しているようだ。展覧会の案内藁半紙を見ると、作者にとって衣服は主体を表しているようだ。つまり1つ1つの衣服は1人1人の人間を表す。光に照らされるそれは蜘蛛の糸に縋る罪人のようにも見える。
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個人的に一番刺さったのがアニミタス(白)。カナダの雪原に刺さったいくつもの鈴がぶら下がった細枝が映し出される映像は、これCGで作った方が楽じゃない?という思うほど幻想的、夢的、ゲーム的で面白かった。

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クジラとコミュニケーションを取りながら来世に行くと、見える黄金の海。地獄巡りからの極楽浄土かな?と思えたが、これはこれで幻想的で長い間みていた。

 

展覧会を通じてまず雰囲気作りが良かった。薄気味悪さ、夢らしさを演出するため冷房はかなり効いていたし、「考えるな、感じろ」系なので作品横にキャプションを載せず、案内用の藁半紙に載せたりなど、ボルダンスキーの雰囲気にはかなり合っていたように思う。ただし、導線ごとの作品紹介順ではなく、時系列ごとの作品紹介順で記載してあったため、観覧者が迷う点、展覧会の挨拶のボードが気づきにくい、見づらい場所にある点はうーんとなったが。

 

総じて、彼の世界観は完成度の高い子供時代の悪夢のようであり、良く言えばノスタルジックな非日常に浸り、恐怖に怯え謙虚になれた。面白かったので今後も追っていきたい。

 

 

 

 

 

平成に生まれ平成を過ごした僕ら

もうすぐ平成が終わる。僕は平成生まれ平成育ちで、所謂ゆとり世代やさとり世代などに該当する。僕が感じた平成最大の変化は携帯の発達だろう。

 

僕がネットに初めて触れたのは小学生の頃だった。windowsXPにダイヤルアップ接続で個人のゲーム攻略サイトを徘徊し、テキストサイトの影響を受けた面白おかしい文章にげらげら笑っていたのを覚えている。youtubeなんて外国の動画しかほとんどなかったし、そもそも見るのに再生時間と同等かそれ以上の時間待たなければならなかった。中学生になるとクラスの携帯所有率は2割ほどで、過保護な親が買い与えたか、ミーハーな子供がねだって買って貰ったかのどちらかであった。高校生になると携帯所有率は5割ほどとなり、クラスの1人か2人くらいがスマホ(ipone 3G)を持ち、当時の3大SNSであるモバゲー、グリー、ミクシィで、気になるあの子のプロフィールページを足跡をつけずに見ることはできないか調べていた。クラスでは怪盗ロワイアルやら釣りスタだとかひたすら決定または5ボタンを連打するポチゲーが流行り、パケット代として数百万請求されることが社会問題となっていた。そして、大学生になり自分も初めてスマホを持ち、ソーシャルゲームをするようになった。

 

こんな学生時代を送っていたが、こんな学生時代で良かったと思っている。思春期は何かと誰よりも強くなろうだとか、誰かから認められようだろうだとか背伸びをしたがる時期だ。今だとtiktokで数多くの中高生が上にいくためしのぎを削ったり、バイトでの悪ふざけをSNSにあげ炎上したりしている。僕らは思春期に津波のように急速に押し寄せた携帯とネットの普及から逃げ切れた最後の世代だと思っている。もし、今ほどネットが普及した時に思春期を迎えていたら僕の性格はさらにひねくれたものになっていただろう。

 

例えば僕が一念発起してスケボーを上手くなろうと思ったとする。そして、上手くなるため先駆者を頼るだろう。昔や田舎なら先駆者を探すのに苦労するかもしれないが、今なら簡単にyoutubeで上手い人の動画を見ることができるようになった。しかし、これは僕個人の性格もあるのだが、そういった動画を見るたび自分もこうなりたいという憧れや羨望より、自分はこうはなれないだろうという諦めや失望の方が強く感じてしまう。雲の上の人すぎるのだ。こうして、挑戦する前から諦めてしまう。このような苦労することなく世界を知ったつもりになっているためさとり世代と呼ばれているのでは思ったりする。井の中の蛙は大海を知らないからいきいきとしていられる。だけどネットによって井戸を昇る苦労なく海を知り、海があるからこそ井戸から羽ばたいていく他の蛙を横目に見ながら、残された蛙は何を思うのだろう。きっとナンバーワンよりオンリーワンだとか多様性を認めろと声をあげたり、井戸の底に潜り、狭いコミュニティで自分がナンバーワンになれる場所を探し求めたり、どうせ成功しないと努力する蛙を嘲笑ったり。

 

駅のホームでも車内でも皆うつむいてる。スマホを触りゲームやSNSをやっている。その液晶の先は狭い世界なのだろうか、広い世界なのだろうか。