凡夫の手記

日々、感じた思ったことなど

PHP技術者認定試験を受験します

2023年7月にPHP技術者認定試験を受験予定です。

業務でPHPを扱うことになったため、体系的な知識を得たいと思っていました。

このような宣言をすることで問題集もしくは主教材のどちらかをプレゼントしていただけるようなので、この度このような宣言をいたしました。

頑張りたいと思います。

 

www.phpexam.jp

マッチングアプリを再開した理由

一人暮らしを始めてもう10年が経とうとしている。

大学生・社会人・上京だったりプライベートにも仕事にも色々と環境の変化はあったが、結局、休みの過ごし方はあの頃と変わらない。ぶらぶらと街を目的もなく歩いたり、パチスロ打ったり、スパ銭で一日過ごしたり、なんなら近くのBOOKOFFでずっと立ち読みしていた中学の頃と何も変わらない。

一方で、久しぶりに体を動かすと想定以上に早く息があがる。グラウンドを何十周もさせられた記憶と公園2周で足が進まない現実がリンクしない。数日ほっといてもあまり伸びなかった髭も今は数日ほっとくとまあまあ生えてくる。体は心を置き去りに順調に歳をとっているようだ。

リモートワークだから1日中、パソコンとガラス越しの空を眺めている。街路樹さえゆっくりと季節を刻むのに、画面に映るお前は変わっているのかと無表情な目が問いかける。

Windowsのロック画面に、開けた荒野の中央にただ一つレールがまっすぐに地平線まで敷かれた絶景が表示された。ふとまるでそれが自分の将来のように思えた。今と同じ風景を10年、20年、30年見ていくような。

「つまんねぇな」キーボードを叩きながら無意識に呟いていた。

そんな未来を変える方法は既に気づいているし、自分の力でどうこうするのは最早無理なことも知っている。人と関わるのは億劫になったのはいつからだろう。別に裏切られた訳でもないのに人に期待しなくなったのはいつからだろう。

そんな後ろ向きな言葉も浮かぶが、人生の中でまだ人を好きだった期間の方が長い気がする、それが逆転したらやばい気がする。寂しさや孤独ではなく、退屈に毒され蝕まれ麻痺し壊死する前に手を施さなくて。あるのは緩やかな死だ。もしも将来宝くじに当たったとしても何も持たない僕だからこそ愛し愛してくれる人に巡り合わなければ。

変化があろうがなかろうが時間は正確に進む。後になればなるほど気づいた時に手遅れになっていく、今という瞬間が今すぐに過去になるような、今登り終えた階段がすぐさま崩れ落ちていくような、終わりの足音が遠くから聞こえたらすぐ後ろで聞こえるような感覚に追い回される。

見通せてしまった未来を変えるために右スワイプを繰り返す。

 

追記 書いてるときに共感できたツイートがバズッてたので記載

お金がかかるから結婚もせずもありだと思うけども、前も言ったけど、斎藤孝氏の『人はなぜ愛するのか』の一節に人がなぜ結婚し子供を作りの一つの答えとして「生きていくモチベーションを自分一人だけで持ち続けるのは意外に困難だから」とあったけどこれはかなり本質を突いた表現だと思ったな。

togetter.com

「Hello, Again 〜昔からある場所〜」を考えていた

カラオケに行くとリモコンの履歴を押して、知っている曲があったら歌い、なかったら下にいくのを履歴の全件(DAMだったら1000件全部)やってます。

そんな感じでこの前歌った「Hello, Again 〜昔からある場所〜」最近ずっと頭の中でリピートされる。

My Little Lover「Hello, Again 〜昔からある場所〜」
作詞:KATE 作曲:藤井謙二小林武史

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いつも 君と 待ち続けた 季節は
何も言わず 通り過ぎた
雨はこの街に 降り注ぐ
少しの リグレットと罪を 包み込んで

君は去ってしまった。手の届かない場所へ。
いつも僕たちは一緒だった。このままずっと一緒にいられると思っていた。
だけどそれは突然のことだった。何が起こったのか分からなかった。
何も分からないまま、朝が来て夜が来て、春が来て夏も過ぎていった。

 

今日は朝から雨だ。わずかに空いたカーテンから木漏れ日が差し込む。携帯の天気予報を確かめると全国的に雨だそうだ。二度寝しようと目を閉じると、しとしとと地面を叩く音がする。懐かしく暖かい匂いがした。と同時に居心地の悪さを感じた。僕は君に何をしてあげられただろうか、あのときの後悔にふっと呼び起こされた。逃げるように布団を被る。外では静かに罪を流す音がする。

泣かないことを 誓ったまま 時は過ぎ
痛む心に 気が付かずに 僕は一人になった

あれからどれくらい経っただろうか。手を合わせるたびに数えることは減っていた。だけど泣くことは減らなかった。街中の雑踏に、車の窓ガラス、視界の端でいつも君を感じていた。そんなことあるわけない、あるわけないと裏切られ、疲れるたびに自分に言い聞かせた。そんなことが続いたある日、どうしようもなくなったのか唐突に受け入れられるようになった。そのころから泣くことはなくなった。

だけど、それと同時に笑うこともなくなった。大好きだったエビフライもガサガサとした何かのように感じられた。それからはあっという間に年を取った気がする。普段静かな携帯がたまに連続で通知音を鳴らす。学生時代のグループチャットだ。あいつらも元気だろうか。中を覗くと結婚したとの報告。おめでとうのスタンプを送り眠りについた。

「記憶の中で ずっと二人は 生きて行ける」
君の声が 今も胸に響くよ
それは愛が彷徨う影
君は少し泣いた? あの時見えなかった

夢を見た。授業の間の休み時間の風景だった。懐かしい顔とともに自分も笑っている。授業を受けて、放課後一緒に遊んで、休みの日は君と近くの公園で遊んだ。僕はそれを自分の後頭部と一緒に眺めていた。そして、最後の別れ際、君と「またね」と手を振ったところで君の顔が分からなくなった。そういえば君はどんな顔だっただろうか。

そこで目が覚めた。もう一度夢を見たいと思って目を閉じたときに涙がこぼれた。

 

 自分の限界が どこまでかを
知るために
僕は生きてる訳じゃない
だけど 新しい扉を開け 海に出れば
波の彼方に ちゃんと"果て"を感じられる

後悔と無力と自責の塊だった。あの時こうすればよかった、もしもタイムマシンがあったら、そんなありもしない if を何度も何度もシミュレーションして夕陽を眺めていた。こんなことをしてても無駄じゃないか、分かっていたように思う。だけどあの頃はそうするしか自分を保つ方法がなかったように思う。夢と現実に傷つくリストカットの痛みの中でしか生を実感できなかった。時は流れ環境は変わる。気が付けば僕は一人だ。過去を慰み者にして、僕はあの頃と比べて何か変わっただろうか。僕は何故生きているのだろうか。

決別を告げ新しい扉を開けた。その世界は暖かくも厳しくも、しかし確かに僕を受け入れてくれた。僕がいたかった場所はここなんだろう。そして、この道の先に君もいるんだろ。

僕は この手伸ばして 空に進み
風を受けて
生きて行こう
どこかでまためぐるよ
遠い昔からある場所
夜の間でさえ 季節は変わって行く

君へ
僕はもう少し頑張ってみるよ。この空に羽ばたくまで。向かい風に吹かれるときも追い風に吹かれるときもあるかもしれない。でもそれは君が味わいたくても味わえなかったものだろう。きっとまたいつか出会えるさ、始まりと終わりの場所で待っててくれないか。物言わぬ季節が巡る間にも僕はそっちに向かってるから。

雨は やがて あがっていた
「記憶の中で ずっと二人は 生きて行ける」
君の声が 今も胸に響くよ
それは愛が彷徨う影
君は少し泣いた? あの時見えなかった
Hello, again a feeling heart
Hello, again my old dear place
Hello, again a feeling heart
Hello, again my old dear place
Hello, again a feeling heart
Hello, again my old dear place

新しい扉の先で僕は笑う。君を忘れたわけではない。だけどいつも感じているわけでもない。それは故郷のようなものだ。僕が帰る場所だ。自分を見つめ直す場所だ。君を思い出すたびにこの愛が触れ合うことがなかった痛みが走る。この痛みを胸に抱いて君のもとに歩いていくよ。あの場所で待っていてほしい。

 

JUJU 「Hello, Again~昔からある場所~ (Ballad Ver.)」 編曲:松浦晃久

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絢香「Hello,Again~昔からある場所~ -Tales of ARISE ver.-」

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26歳彼女なし=年齢に初めて彼女ができた話

天井に取り付けられた豆電球が滲んでいた。

幼いころから一人で涙したとき慰めてくれたのは豆電球だった。涙を蓄えてそれを見ると万華鏡のようにキラキラとして、無駄に速くなった鼓動を落ち着ける間、気を紛らわせた。

 

初めて人を好きになった。この年になって初恋か...と自嘲に思えた。そして、初恋は実らないことが常だ。

 

それは初めて現場に配属されたときの職場の人だった。院卒の自分より年下のくせに先輩というギャップがまず最高だった。とはいうものの別に最初から好きになったわけではなかった。ただ一緒に仕事を教えてもらううちに彼女の仕事へのプロフェッショナルとしての信念や、その一方の愚痴交じりの打たれ弱さ、なにより嫌いなものは嫌いという正直さと人を慮る優しさに徐々に惹かれていった。パソコンに向かいながら隣の席同士で業務のこと、他愛ないことを話しながら少しずつ相手の情報を聞きだそうとした。秘密主義な彼女はなかなかプライベートのことは話さなかったが、ぽろっと好きなアーティストを聞いたらその日のうちにYoutubeで検索した。彼女にも彼氏がいるとの噂だったが「直接聞いてないし...絶対俺のほうが好きだ」といえる自信があった。大学6年来の友人に話したら「お前がそんなエネルギッシュに語るのを初めて見た」と言われた。休みの日に買い物に行くときも偶然彼女と会う奇跡を望んだし、彼女を思うと動機で眠れなかった日もあった。ついには食欲がなくなり何kgも痩せた。、恋の病にかかっているのを自覚し自嘲すると同時にまだ自分にこんな感情が残っていて、浮かれることができて毎日が楽しく、空が青いと思えることに感動した。

 

しかし、その恋は実らなかった。原因は全部分かっていた。「キモかった」からだ。

26歳、顔も良くなく恋愛経験もない根暗が急に何かに取り憑かれたように盛ったらキモいだけだ。上手な話の引っ張り方も知らない。盛り上げ方も知らない。ましてや誘い方も知らない。初めて好きになった女の愛し方すら分からないままこんな歳になったこと、好きになった女を抱く方法も分からず他の男と笑う姿が憎くて悔しくて堪らなかった。アプローチをしたときに自分で自分がキモいということに気づいていたのにそれを止められなかった。止めたくなかった。このまま中途半端にブレーキをかけてネットの浅知恵のテクニックをしたところで自分は使えないし、そこから何も学べないことも分かっていた。他の普通の人が経験することを学んでこなかった自らの罪だ。もちろん結果は駄目だった。いわゆる非モテコミットの典型例として撃沈した。

 

その後、後悔と憎しみと化した自分は暇さえあれば恋愛コラム、心理学、自己啓発の本を見ていた。その中でも自分の興味を引いたのは恋愛工学だった。恋愛工学は先の非モテコミットの出典元であり、適当な女が書いたコラムよりよっぽど自分に合ってると思った。そして、より今の時代に即した生の情報を得ようとしてTwitterのナンパ界隈に迷い込んだ。そこは出会ったその日にSEXした数を競い合いマウントしながら、モテテクニックをnoteで有料で売ったり、講習として何千円~数十万円使うような界隈だった。そんな界隈にへばりつき発言力が強い人を何十人もフォローし、2カ月ROM専していた。すると、同一人物は数週間おきに同じようなことを言ってるし、みな異口同音に同じようなことを言っていることに気が付いた。それは「モテるためには男らしくあれ」ということだった。マッチングアプリのプロフィールは有料noteを買い研究し、写真は地元や大学の友人に恥を忍んでマッチングアプリ用の写真を撮ってくれと頼みこみ、それには飽き足らず5万払いナンパ師に写真を撮ってもらった。片っ端からメッセージを送りうまくデートに誘えても会話が続かないことが多かった。デート後何がいけなかったか、盛り上がった会話をメモに書き改善を行った。PDCAを回すことで相手が変われど反応が徐々に良くなってきていることがゲームのようで楽しかった。そんなことを十何回も繰り返したときはじめて即る(会ったその日にSEXする)ことができた。達成感があったし相手はさほど綺麗ではないヤリマン大学生だったが、あなたなら彼女になってもいいよと言われたことは素直にうれしかった。しかし、彼女は体の関係以上の愛に飢えているように見えた。ナンパ師たちの方法は体の関係を結ぶことに特化している。彼女は体だけの愛ではなくそれ以上の愛を注いでくれる人に出会う為にいろんな男に体を捧げる日々を繰り返しているように思えた。「私があなたを好きになったらその責任取ってくれるの?」。ついさっき会った自分にその覚悟はもちろんなかったし、キープもしくはセフレとするのも申し訳なく感じた。ああこうやってワンナイトは生まれるのかと感じた。そして、自分はSEXではなく恋人を求めているのだということに気が付いた。

 

そんな裏で何回もデートを続けている子がいた。彼女は最初のデートから分かってほしいという欲求が強かった。彼女は不遇な青春時代を過ごした反動からか現在なにかと頑張っているようだ。きっとそれは、イーブイが異なる進化先を複数持っているのと同様に僕の違う未来のように見えた。また、起源を同じにする僕らは分かり合えるのではないかと感じていた。そして、「人は、もしくは自分はなぜ生きているのか?」その質問に即答したとき人生で初めて分かり合えるのではないかと感じ、一緒にいたいと思えた。それは初恋の時に感じた激情ではないが、あれが恋ならばこれはなんだろうか。自分の中で堂々巡りしても答えは出ないので意を決して彼女に「好きだ、付き合ってくれ」と頼んだ。

 

僕は今まで彼女がいたことがなかった。だから、関係を持続させることに不慣れかもしれない。そして、お互いのことについてまだ知らないことも多い。似ている・分かり合えると思った価値観も進化先が違うためか似ていないと感じることも多い。それを理解しあいすり合わせていくのは相応の時間がかかることだろう。それでも、僕は彼女と一緒にいたいと思っている。

慟哭

ざわつく。怒りで世界が覆われる。道端を仲睦まじく歩く男女の頭をかち割ろう。今日も空は曇天だ。

人が憎い。世界が憎い。
信じてみた、誠意というものを。
人全てを信じることはできなくともせめて誠意だけは信じてみたかった。

それでも世界は美しいと思いたかった。
世界の美しさを信じていたかった。

姿の見えないあいつは1枚の羽と俺を天秤にかけ比べる。死刑も通達されないまま二度と機会は訪れない。それがあなたの誠意だった。

そうか、よく分かった。ならば、
壊せばいい、壊れればいい。

承認欲求と自己肯定感

SNS をやっているとしばしば聞く承認欲求と自己肯定感 。Facebook には結婚や旅行の報告を上げ、インスタには盛れた写真を載せる。ツイッターではそれを羨んだり蔑んだりする一方で、いいね・リツイート欲しさに裏垢女子だとか、ガセニュースをバズらせる人達がいる。なぜ、そんなに必死に目立ちたいのか。それはきっと自信がないのだろう。

自信の形成には2通りの方法があると考えている。
・他人の承認からなる自分の居場所の確立
・自分の過去現在未来への信頼

これらを成し遂げたいという欲望こそが承認欲求と自己肯定感だと思う。最近、書店の心理学コーナーでも「自己肯定感を高める方法」のような本が多く陳列されている。少なくとも10年前はこんなに多く見かけることはなかった。なぜ、近年そういった言葉をよく見かけるようになったのだろうか。

冒頭の話につながるのだが、 SNS やインターネット、情報社会が普及したからだと考えている。

可愛いあの子はライブチャットアプリで私より稼ぐし、街で一番スマブラが強かった彼はオンラインでフルボッコにされる。より高みを目指せる情報を簡単に得られるようになった一方、世界の広さを知ってしまったが故に諦めたり破れてしまった人の方が多いのではないだろうか。それはまるで井の中の蛙が本来知ることはなかった大海を知ってしまったがために劣等感を抱えるようだ。

だとしても人は生きていく。他人と比較し、どんな生き方が正しいのか分からなくても日々を暮らしていく。

だから自信が欲しいのだ。
それは暗闇を模索する一つの灯りとなる。

だからSNSへ投稿するのだろう。自分の正しさを主張するため、自分は間違っていないことを確かめたいため、他人からの「いいね!」やリプライという承認を得たいため。

承認欲求と自己肯定感、それらは相乗し合うものだ。他者から認められれば自分は正しいのだと第三者からのお墨付きがもらえ、さらに自己肯定感は高まる。また、自分が正しいのだと堂々と振る舞う人は他人から頼られ認められやすい。

自信がない人は他人から求められること、もしくは自分が正しいと思うことをやってみるといいと思う。ただどちらかといえば人から求められることやった方がいいと思う。

自分が正しいと思えることが社会の望む方向と合うとは限らないからだ。それこそ独りよがりな正義を振りかざすようになり、正しいことをしているつもりなのに誰もついてこない状況に陥る危険がある。また、自分のために生きるより他者のために生きた方が幸せだという研究結果もあるようだ。※1

人はみんな自分が大好きだ。そうして、できることならば良いところも駄目なところもありのままの全てを自分自身や誰かに理解して欲しいと思っている。だから、自己肯定感も承認欲求も人ならば持っていない方が異常な欲求だ。一番駄目なことはそれらの感情自体を否定して飲み込み消し去ること。人として当然の感情を飲み込み続けると感情が湧いてこなくなる。結果、夢や目標、活力も湧いてこなくなる。感情や欲求に正義も悪も、プラスもマイナスも存在しない。殺すくらいならわがままに生きた方が健康だ。

最後に今回これを書くにあたって調べて分かったんだが英語で自信は「Confidence」と呼ぶ。よく聞く「pride」は自尊心、誇りという意味だそうだ。

きっと、自信は自分を信じることで生まれるんじゃない。自分自身が歩んできた道のり、その側にいてくれた人を誇りに思うことで生まれるんじゃないかと思う。

※1 https://note.com/tegonyan/n/n4a9b7f4495be

弱音・愚痴について

Twitterの身内しかいないような鍵垢で習慣のように何年も弱音や愚痴を吐いていた。気づけば弱くなっていた。そして、弱音を吐く悪影響について考えていた。

 

弱音を吐く悪影響(自身)
卑屈になる
他人任せになる

(他者評価)
近づきたくない
魅力がない

 

・卑屈になる
何故弱音・愚痴を吐くのだろう。それは自分で自分を憐れんでいるからだ。しばしば他人とのレースの中で敗れる、あるいは孤独な道のりの中で諦めることがある。「出来なかった」「駄目だった」「もう無理だ」こういった言葉はそんな時によく口にしてしまう。そして、そんな言葉には「俺は」という一人称が全て暗黙的に付いている。そんな言葉を日常的に使い続けると常に敗者であるような負け犬癖が憑く。そして、さらに弱音を吐く悪循環が回っていく。

 

・他人任せになる
そんな言葉を口にすると心優しい誰かが手伝ったり、肩代わりしてくれるかもしれない。その優しさはきっと甘美だろう。しかし、その甘さに慣れると自分一人では何も出来ないヒモ体質になる。「どうせ、自分なんかがやらなくても誰かがやってくれる」卑屈な上に虚勢を張り何も出来ない野郎がいる。そこに何が残るのだろう。

 

・近づきたくない
弱音・愚痴を吐いてばかりいたが同時に何故他の人は吐かないのだろうと感じていた。自分だけが辛い訳じゃない、より深く鋭く悩んでいる奴もいるだろうに何故漏らさないのか不思議だった。そんな中1つの仮説があった。それは自分が吐いているから誰も漏らさないのだと。ネガティブワードは吐く本人の想像以上に他人を巻き込む。しかし、本人はネガティブの塊のためそれに気づかない。そして、ネガティブの瘴気に触れた周囲は同様に暗く陰気に、時には攻撃的に、あるいは哀れみや哀しみを向け同調してしまう。弱音・愚痴は他人の感情に対して強くネガティブに揺さぶる。一緒にいて陽気な気持ちになる奴と陰気な気持ちになる奴、どちらと過ごしたいだろうか。人の振り見て我が振り直せ。それはひどく我が儘でピエロな代弁者ぶった反面教師だった。

 

・魅力がない
魅力について考えていた。魅力的な人とは何だろうか。謙虚・自信家・ポジティブ・芯がある・頼りになる・余裕がある・器がでかい・何かに夢中になっている・相手の立場に立てる・相手を尊重する...etc

考えたもの検索して出てきたものを羅列したがこれらは弱音・愚痴とは遠いものに感じる。人は強いところに惹かれ、弱いところは恥じ隠すものだ。しばしば弱さを晒すことは強さだと言われるが弱さを晒す=弱音・愚痴を吐くことではなかった。その弱さが本性だったとしてわざわざ晒す必要はあるのか。それはお前の理想像なのか。幼き自分が描いた将来像に今のお前の姿は映っていたのか。

 

・それは負け犬の遠吠えだろうか
弱音・愚痴を大抵の人は聴きたくないと思うが、個人的には聞いていたい。それは他人のネガティブに振り回されないほど自分がネガティブなのと、そういったものにその人の本質が見える気がするからだ。ただ、聞いていてもつまらない弱音・愚痴がある。それは悔しさが滲まない、解決へ向かわず共感を求める愚痴だ。個人的な価値観だが負けた時ではなく勝つことを諦めたとき人は負け犬になると信じている。つまり、負けようとも足掻きもがき続ける限り人であり続ける。口にしたその言葉は「下剋上の狼煙」だろうかそれとも「負け犬の遠吠え」だろうか。

 

強く気高く生きねば