凡夫の手記

日々、感じた思ったことなど

回想1


失い無くし消えていく。あれほどの後悔や痛みも時間と共に小さくなる。何度も擦った擦り傷、鋭く切り裂いた切り傷もかさぶたとなり消えていく。そんな友人たちを愛おしく弔いたい。

【保育園、幼稚園】
僕の最古の記憶は車の中でゲームボーイをしている。車が揺れるのも気にせず目を釘付けにしてキャラクターを操作する。そんな姿を見かねた祖母が「そんなことはやめ」と肩を叩いた。「触るな!!ババァ!!」と激昂する。あれは確か4歳だった気がする。

そんな風にゲームが大好きな僕は保育園の休み時間にもゲームの世界に入っていた。校庭を駆け回りここにハテナブロックがあるんだ。ジャンプジャンプと飛び跳ねていた。ある時は枝を拾って「ゼルダの伝説」のリンクのように振り回し回転切りをしていた。思えばこの時から妄想癖が酷かった。そんな妄想たちは時には僕を苦しめたが、時には救ってくれた。基本的には前者だけれども。

保育園のすぐ裏に家があり住んでいた。しかし、あまり良い物件ではなく隙間風が吹き込んでいたし、トイレ中に何度もムカデに遭遇した。そんなアパートで何年か暮らした後、両親は一軒家を買い、僕らは別の土地へ移った。

一年間幼稚園に通った。両親は変わらず働いていたので、近くに住む母方の祖父が送り迎えをしてくれた。祖父母の家では薬の瓶に保存された柿の種を食べながら「スーパーマリオ64」で遊んでいた。しばらく遊んでいると、母が仕事から帰り一緒に我が家へ帰った。そんな毎日だった。たまに近くの高級レストランへ祖父母そして母と一緒に行くことが僕は好きだった。池の鯉に食パンの切れ端を与えて群がる様子を見るのが好きだった。生意気なことに、僕は味も分からない癖に唯一数字が4つ並んでいるという理由でいつもステーキ定食を頼んだ。祖父母はニコニコ笑っていたが、母は勘定を持つ祖母に謝っていた。絶対的価値観であった親がへりくだる様子が面白かった。

初めて、バレンタインチョコを貰ったのはこの時だっただろうか。祖父母もいないときは隣の家の女の子とピコで遊んだ。年齢にしてはゲームが上手だった僕はピコのミニゲームを難なくクリアすることができた。そんな彼女からいつかお世話になっているからとチョコを貰った。今でも覚えているから相当嬉しかったのだろう。

【小学校低学年】
小学校でも僕の冒険癖は治らなかった。通学路を真っ直ぐ帰ることなんてほとんどなかった。住宅地の間を流れる排水路のトンネルをくぐったり、ランドセルを放り投げ草むらで通学帽を振り回しモンシロチョウを捕まえた。通学路にはいろんな思い出がある。ある日は、パチンコ屋ののぼりに描かれた水着のお姉さんの胸に手が当たったとのことで数日間あだ名がスケベになった。またある日は、友人達と裏山の数mもあるアスファルトをよじ登り遊んでいた。すると、何かの拍子にランドセルが開き中から教科書や筆箱が飛び出し茂みの中に落ちていった。落ちた文房具を拾い集めると雨が降ってきたので家に帰ったが、家で改めてランドセルの中を見ると大好きだったなぞなぞの本がないことに気づいた。親に一部始終を伝えるとそんな危ないところで遊ぶなとこっびどく怒られて泣いた。その後、傘と懐中電灯を手に一緒に夜遅くまで探した。

そういえばこんなこともあった。ある日、胃腸風邪かインフルエンザかで何日か寝込んでいた。母は付きっきりで看病して病院に何度も行くかと訊いてくれた。でも、僕は行かないと何度も首を振った。僕は当時からケチな子供だった。手洗いの度に水を止めていたし、2階から荷物を一階に下ろすだけでも階段の電気をこまめに消した。なぜこんな風になったのか心あたりはないが石油が何十年後に無くなるだとか地球温暖化で何十年後には海の底だなんて話をリアリティを持って、誰のものでもない自分の話だと信じ込んでいた。そんな環境問題に留まらず僕はお金を無駄に使うことを渋り、この時も病院に行ったら医者代が勿体ないと思っていた。何度も首を振る僕に対し、とうとう母はもしかしてお金がかかるから?と訊いてきた。僕は当時の吉本新喜劇内のネタのように  「Yes,I do」と答えた。頬を叩かれた。何が起きたか分からず母を見ると瞳に涙を浮かべ、寝室を出ていった。当時の僕は自分が何の間違いを犯したのか分からないまま目を白黒させながら天井を眺めていた。今ならば母が泣いていた理由が分かる気がする。

授業中はたくさん手をあげて問題に答えていた。給食では4、5人で机を寄せ合い「僕の好きな色は何でしょう?ヒントは筆箱の色。正解。あずさちゃんの好きな色は?」そんな他愛ないクイズを出してみんなと楽しんでいた。休み時間には学校の石という石をひっくり返して、ダンゴムシゲジゲジを枝でつついていた。掃除の時間、雑巾がけをしているとき目の前の女の子のスカートの中がずっと見えて訳も分からずドキドキした。放課後には英語教室に行き、英語版カルタで何度もお手つきをして先生を困らせた。休日は野球クラブの練習に行っていた。かなり下手くそでミットにボールが入った後からバットを振り始めていた。でも、いつか上手くなってやろうとみんなで野球をするのが楽しかった。日曜日にはクラブの子と遊ぶために、校区の端から端まで田園地帯を自転車で走った。一緒に野球をしたり、「大乱闘スマッシユブラザーズDX」や「星のカービィ スーパーデラックス」をして遊んだ。カービィの電源をつけて0%の表示が出る度溜め息を吐きながら笑いあった。毎日が新しくて楽しくて写真に映るときは満面の笑顔を浮かべてピースをしていた。

ある日、帰り際に同級生の女の子から頬にキスをされた。彼女はキスをした後、顔を真っ赤にして教室から出て行った。訳が分からなかったからその様子を見ていた女の子に「どういうこと?」と聞いたら、「あの子、君のことが好きなんだって」と言われた。不思議な気持ちになったがその子とはそれ以降何もなかったし、何もしなかった。

そんな僕の将来の夢はゲームのデバッガーだった。ゲームをテストプレイしてバグがないか調べる仕事だ。僕はゲームをしてお金が貰えるなんて最高だと思った。家では64や兄のps2で遊び、64はもっぱらマリオやゼルダps2は一人で桃鉄をしていた。5つ離れた兄より僕はゲームが上手かったが、中学生の兄とはマリオカートマリオパーティでたまにしか遊ばなかった。

小学校低学年、この時期が僕の人生において最も楽しかった。日々が発見に溢れ充実していた。振り返っても一番モテていたし、傍目から見ても輝いていたのだろう。そんな、僕を育ててくれたのは親だけでなく、家族、友人、近所の人、環境、土地...を含めた故郷だった。

小4の春、父が家に帰って来なくなった。帰ってきたと思ったら、コソコソしているか母と喧嘩をしていた。当時の僕に父との思い出はあまりなかった。平日の晩御飯も一緒に食べることはほとんどなく、休日も家族サービスとしてキャンプに何回か行った記憶しかない。なので、父が帰って来ないことはあまり気にしなかった。むしろ、家庭内の不穏な空気ゆえに存在感が増したようだった。僕が学校から帰ってくると父が学校に駐車場にいた。そして、遠くから僕を手招きし、お母さんには内緒だよとテレホンカードと父の電話番号のメモを受け取った。当時、その意味が分からなかったが今思えば、家からの連絡では履歴が残るし、何かあったら秘密裏に電話をかけてというメッセージだったのだろう。しかし、父にとっては重要事だったが僕にはどうでもよかった。実際、一回も電話をかけなかった。僕はメモはもちろん見せずにテレホンカードを道端で拾ったと母に報告した。母にとってそれはお見通しだったらしくますます仲が悪くなったように思う。当時の僕も不穏な空気を感じていたがそんな、まさか、そんなことはテレビの中の話だけだと考えていた。考えようとしていた。この時、もし僕が何か言っていれば行動していれば運命の分岐は変わったのだろうか。そんな後悔が後の青春時代を無駄にした。

あとから分かった話だが、当時父は仕事が忙しく家に帰るのも夜遅くだった。そして、よくある「家族と仕事どっちが大事なの!?」という問いに対して父は「家族を支えるために仕事をしているんだろ!」という正論を愚直に信じる人だった。それ故にそれ以外の正論に気づかなかったのかもしれない。ちなみに父の父、僕の祖父もそのような人だったらしく父は親の背中を見てちゃんと育ったのだろう。この血の呪いのような話は今後も続いていく。

春から夏に変わり夏休みに入った頃、僕はいつも通り母方の祖父母の家に預けられた。しかし数日後、父方の祖父母の家に遊びに行くらしく父と父方の祖母が来た。約1ヵ月振りに父を見た気がする。僕だけが父の車に乗り、兄は母方の家に残るそうだ。別れ際、64とps2どっちを持っていくか訊かれた。兄は滅多に64で遊ばなかったから、僕は64と答えた。大人を除き僕だけが何も知らないまま僕を乗せ車は走り出した。再び母と会うのは5年後になる。