凡夫の手記

日々、感じた思ったことなど

平成に生まれ平成を過ごした僕ら

もうすぐ平成が終わる。僕は平成生まれ平成育ちで、所謂ゆとり世代やさとり世代などに該当する。僕が感じた平成最大の変化は携帯の発達だろう。

 

僕がネットに初めて触れたのは小学生の頃だった。windowsXPにダイヤルアップ接続で個人のゲーム攻略サイトを徘徊し、テキストサイトの影響を受けた面白おかしい文章にげらげら笑っていたのを覚えている。youtubeなんて外国の動画しかほとんどなかったし、そもそも見るのに再生時間と同等かそれ以上の時間待たなければならなかった。中学生になるとクラスの携帯所有率は2割ほどで、過保護な親が買い与えたか、ミーハーな子供がねだって買って貰ったかのどちらかであった。高校生になると携帯所有率は5割ほどとなり、クラスの1人か2人くらいがスマホ(ipone 3G)を持ち、当時の3大SNSであるモバゲー、グリー、ミクシィで、気になるあの子のプロフィールページを足跡をつけずに見ることはできないか調べていた。クラスでは怪盗ロワイアルやら釣りスタだとかひたすら決定または5ボタンを連打するポチゲーが流行り、パケット代として数百万請求されることが社会問題となっていた。そして、大学生になり自分も初めてスマホを持ち、ソーシャルゲームをするようになった。

 

こんな学生時代を送っていたが、こんな学生時代で良かったと思っている。思春期は何かと誰よりも強くなろうだとか、誰かから認められようだろうだとか背伸びをしたがる時期だ。今だとtiktokで数多くの中高生が上にいくためしのぎを削ったり、バイトでの悪ふざけをSNSにあげ炎上したりしている。僕らは思春期に津波のように急速に押し寄せた携帯とネットの普及から逃げ切れた最後の世代だと思っている。もし、今ほどネットが普及した時に思春期を迎えていたら僕の性格はさらにひねくれたものになっていただろう。

 

例えば僕が一念発起してスケボーを上手くなろうと思ったとする。そして、上手くなるため先駆者を頼るだろう。昔や田舎なら先駆者を探すのに苦労するかもしれないが、今なら簡単にyoutubeで上手い人の動画を見ることができるようになった。しかし、これは僕個人の性格もあるのだが、そういった動画を見るたび自分もこうなりたいという憧れや羨望より、自分はこうはなれないだろうという諦めや失望の方が強く感じてしまう。雲の上の人すぎるのだ。こうして、挑戦する前から諦めてしまう。このような苦労することなく世界を知ったつもりになっているためさとり世代と呼ばれているのでは思ったりする。井の中の蛙は大海を知らないからいきいきとしていられる。だけどネットによって井戸を昇る苦労なく海を知り、海があるからこそ井戸から羽ばたいていく他の蛙を横目に見ながら、残された蛙は何を思うのだろう。きっとナンバーワンよりオンリーワンだとか多様性を認めろと声をあげたり、井戸の底に潜り、狭いコミュニティで自分がナンバーワンになれる場所を探し求めたり、どうせ成功しないと努力する蛙を嘲笑ったり。

 

駅のホームでも車内でも皆うつむいてる。スマホを触りゲームやSNSをやっている。その液晶の先は狭い世界なのだろうか、広い世界なのだろうか。